金光教

  金光教 名城教会


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  金光教 名城教会


前教会
前教会の教会全景
(左写真)


 初代教会長 河合正男先生が昭和23年6月6日、名古屋教会3代教会長 谷村萬蔵師の命により、名古屋市北区駒止町2の2、西尾実三郎宅にて布教を開始することとなった。

 戦後間もないことであり、名古屋の街はまだまだ戦後の尾を引いていた。しかし、そのような中、近所の方々のご理解を頂き、昭和23年8月27日正式に認可を頂き、金光教名城教会として誕生した。

 名城教会の名称の由来は、布教当初信者宅での設立にて、正式にどこへ教会が移転するかわからず、名城(名古屋の城)であれば、名古屋市のどこに行っても良いのではないかとのことで、名城と名付けられたと聞いている。

 その後、昭和28年5月11日に現在の名古屋市北区敷島町42番地へ移り、現在に至っている。
 

  初代教会長 河合正男先生


初代教会長 河合正男師
初代教会長 河合正男師
(左写真)


 初代教会長 河合正男先生は、明治42年12月22日大阪府岸和田市にて、父楠太郎、母和喜の長男として生まれた。

 幼少の頃より身体が弱く「10才まで生きたら、炒り豆に花じゃ」といわれるほどであった。

 大正8年、尋常小学校4年終了が、病気によりて3年間休学した。その折、ある易者から「この子の病気は、金~のたたりじゃ」と言われた。

 母は若い頃一度金光教の教会に友達に連れられて参った時に、金光教の教祖様が金~様のおかげをいただかれたことを思い出し、早速夫婦揃って金光教平野教会の門をくぐったのである。

 両親の熱心なる信心によって病状も快方に向かっていた、昭和10年頃、結核の病気療養中の山口県診療所にて自殺を図ったが、医師の早い発見により未遂に終わった。

 父親は「おまえが生きてさえいてくれれば良い」と一言いわれ、そのことで病院を追われ、先生は両親と共にご本部へ参拝し、 その後、関西へ向かう途中、金光教六甲教会の提灯の明かりが目に入り参拝、 事の始終をお取次いただくうちに、六甲教会初代教会長澤田新蔵先生が、「このままこの子をおいてゆけと」おっしゃって、そのまま親子共々教会修行に入り、 昭和12年金光教講義講究所(現在の金光教学院)を卒業し、親子共々金光教教師に補任されたのである。

 その後、父楠太郎先生は、神戸市塩屋の地に布教にで、正男先生は名古屋教会に修行生として入ることとなった。

 父楠太郎先生は、教会開設間近の昭和19年2月2日に帰幽。 正男先生に後をゆだねたのであったが、名古屋にての布教に専念したいとの強い信念により、塩屋布教は所は、母和喜が御用することとなった。

 その後、名城教会の布教に合わせて、塩屋布教所を締めて、母を呼び寄せ共に生活をするようになった。

 正男先生は、常に人の助かりを願われ、こと神様の御用に対しては、大変厳しい方であった。 そして信奉者には家族ぐるみの信心をめし、絶えず御取次を頂いて、自分を主体とせず、相手を立てて相手を大切にさせていただくことを願いとし、教会一心・教会一家を求めておられた。

 昭和60年10月17日帰幽。 享年76才10ヶ月であったが、「10才まで生きたら、炒り豆に花じゃ」といわれていた弱い身体であった人が、人を導き、人を助ける御用のおかげを頂いて、生かされていかれたのであった。

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