金光教

  金光教 名城教会


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  紹介


人々の幸せを祈る金光教

 ≪ 名城教会 ≫

 昭和二十三年六月六日に初代教会長河合正男大人が、故西尾実三郎・乃婦江夫婦宅にて布教。

 初代教会長が「十歳迄生きたら、いりまめにはなじゃ。」と医者に言われ、自分が助かるにはこの道でおかげを頂くしかないと、 親子揃いて教会参拝をいたし、み教えを頂き、御本部でも修行にはげまれて、昭和十二年六甲教会在籍にてお道の教師とお取り立てを頂き、 その後初代は、親教会である名古屋教会にて修行に入りました。

 初代の父である河合楠太郎師は、六甲教会の手続きによって、神戸市塩屋の地にて布教をされましたが、開教目前の昭和十九年二月二日に帰幽されました。

その後を初代に託したいと願っておられたそうですが、初代は、名古屋の地にて布教がいたしたく、神戸には行かずに名古屋に留まりました。

 昭和二十三年春頃、名古屋教会三代教会長谷村萬蔵師が「西尾さんのお宅にて布教を致しなさい。」とのお言葉を頂き、 六月六日に西尾宅にて、布教開始のお祭りを奉行いたし、八月二十七日には、金光教名城教会としての認可を頂きました。 そして、昭和二十八年五月十一日にこれの地に、新築移転を致しました。





 ≪ 二代教会長 河合先生 ≫

 現教会長 河合利男先生は、初代教会長河合正男先生の後を受け継ぎ昭和60年11月9日教会長の任命を受け二代教会長として今日まで御用にお使いいただいております。

 利男先生は、昭和32年11月6日、父稲森實・母美千代の五人兄弟の三男と生まれ、昭和35年3月16日、後継者として金光教名城教会・河合家に入籍。

 入籍に当たっては、祖母である河合和喜さんが、私が母のお腹の中におる間から、「男の子として生まれ名城教会へいらっしゃいよ。」と願いを立て、 母に会うたびにお腹をなでさすりしていたという。

生まれてからも再三養子縁組を申し出るも一向に進まず、祖母はご本部に参拝して三代金光様(金光攝胤之君)にお取次を頂き、 「養子縁組早いがよろしい。」とのお言葉を頂き、両親がお引き寄せ頂いていた金光教阿倍野教会へご報告に参拝。

 お取次を頂くと、当時二代教会長伊藤コウ先生は「三宝に乗せてお供えいただきなさい。」と申され、養子縁組が調い、 母は名古屋への出発の日、教会へ参拝し「泣かずにお供えができますように。」とお取次を頂いて参ったそうです。
 記憶は定かではありませんが「僕、ここの子になる。」と言ったそうです。

 その後、小学校・中学校・高校と進学する中で、だんだん教会の後継がどんなに大変なのかを知り、教会の後継が、いやで、いやで仕方がありませんでした。

 しかし、正男先生もご高齢になり、「とにかく高校を卒業後、金光教学院に入って、卒業したら好きなことをしても良い。」と言われ入学願書を出しました。

 高校を卒業してすぐの昭和51年2月29日全身50針を縫う交通事故を起こし入院。学院の入学試験2週間前に退院し、無事に入学試験を受けることができました。 この交通事故がきっかけとなり、あれだけいやだった金光教学院に入学。1年間の修行を終え、昭和53年6月10日金光教教師に補命を頂きました。 奇しくも、正男先生の教師補命40年の褒賞も同じ日に受けることができました。

 その後、昭和57年7月7日に副教会長に就任、同年12月14日、稲沢教会在籍の田内節美先生(昭和57年6月10日補命)と御縁を頂き結婚。 1男2女の子宝に恵まれ、長女も平成18年金光教教師の補命を受け、現在本部教庁育成部にて御用を頂きました。 また、長男も平成22年金光教教師の補命を頂き、現在名古屋センターにて御用を頂いております。

亡くなった初代教会長先生の願いを受け、人が助かりさえすればとの思いも新たに、日々カツガツ乍ら御用に使って頂いております。

河合家
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