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第1章〜5章 神と人間、人間の難儀、信心とおかげ、信心の実戦、信心の心得、信心と生活、生神の道,
第1節〜5節
神 ・
神の働き ・
神の心 ・
人間 ・
生と死 ・
神への無礼 ・
難儀のもと ・
めぐり ・
信心 (信心、わが心、信心の成長、信心と道徳) ・
おかげ ・
徳 ・
信心の仕方 (参拝、取次、祈念、お願い、お礼、お断り、おわび、お供え、修行、祭り) ・
信心の心得 (日常の信心、一心、お任せ、難儀の受けとめ方、先の楽しみ、辛抱・堪忍、我欲・油断・慢心、思いやり) ・
信心と生活 (仕事、財、食事、家庭、信心の継承、妊娠、出産、徳育、病気、習俗) ・
信心と社会 ・
生神金光大神 ・
神になる ・
人を助ける (人を祈る、話をする、親切を尽くす) ・
道を広める
第1章,神と人間
- 第1節 神,,001
天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵みを受けて、地上に生きているのである。
- 第1節 神,,002
天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。
- 第1節 神,,003
天地金乃神は、昔からある神である。途中からできた神ではない。天地ははやることがない。はやることがなければ終わりもない。天地日月の心になることが大切である。信心はしなくてもおかげは授けてある。
- 第1節 神,,004
神は人間本体の親である。信心するのは親に孝行するのと同じようなものである。
- 第1節 神,,005
天地金乃神は人間の親神である。かわいいわが子をどうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい。
- 第1節 神,,006
わが子のかわいさを知って、神が人間をお守りくださることを悟れよ。
- 第1節 神,,007
目には見えないが、神の中を分けて通っているようなものである。畑で仕事をしていようが、道を歩いていようが、天地金乃神の広前は世界中である。
- 第1節 神,,008
天地金乃神が社に入られたら、この世は暗闇になる。神の社は、この天と地である。
- 第1節 神,,009
天地金乃神のご神体は天地である。宮社に鎮まり納まっておられるのではない。真1心の心に神がおられて、おかげになる。
- 第1節 神,,010
大阪からお参りしたある信者が、「金光様、大阪は広うございます。4区2郡に分かれておりますから」と申しあげたら、「大阪は広いなあ。しかし、神からみればけし粒よりは少し小さかろう」と仰せられた。
- 第1節 神,,011
人は十年は長いように思うけれども、神にとっては、あちらを向いてこちらを向く時間ほどもない。
- 第1節 神,,012
神は声もなく、形も見えない。疑えば限りがない。恐れよ。疑いを去れ。
- 第1節 神,,013
天地のことをあれやこれやと言う人があるが、人間では天地のことはわからない。天地のことが人間でわかれば、潮の満ち干もとめられよう。
- 第1節 神,,014
天地金乃神は、幾千万年、天地のある限りただ1つであるけれども、ほかの神は年々に増える。
- 第1節 神,,015
天地金乃神は、神、仏をいとわない。神道の身の上も仏教の身の上も、区別なしに守ってやる。神道も仏教も天地の間のものであるから、なに何派かに派などと、宗旨論をしたり、凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えていかねばいけない。
- 第1節 神,,016
伊邪那岐、伊邪那美命も人間、天照大神も人間であり、その続きの天子様も人間であろう。神とはいうけれども、みな、天地金乃神から人体を受けておられるのである。天地の調えた食物をいただかなければ命がもつまい。そうしてみれば、やはりみな、天が父、地が母であって、天地金乃神は1段上の神、神たる中の神であろう。
- 第1節 神,,017
これまでは、忌み汚れを言う神ばかり。忌み汚れを言っていては、人は助からない。天地金乃神は、忌み汚れを言わない神である。ここをよく悟ることが大切である。
- 第2節 神の働き,,018
世界中、天が下の者は、みな天地金乃神の子である。天地金乃神のおかげは世界にいっぱい満ちている。そのおかげがなければ空気がないのと同じで、人間は1時も生きてはいられない。
- 第2節 神の働き,,019
今も昔も、これから何万年たっても、世の中は変わりはしない。同じことである。人もきれなければ、食べ物もきれることはない。次々に種が生え続いていく。
- 第2節 神の働き,,020
いろいろの神や仏に頼んで、おかげがあると言うけれども、おかげのできるもとは天地金乃神のほかにない。
- 第2節 神の働き,,021
願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほど離れていても、拝めばそれが神に届く。
- 第2節 神の働き,,022
天地金乃神のおかげで生かしてもらっている人間は、合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。悪いことも善いことも、みな鏡に映るように神はご承知である。信心して、真の心にならなければならない。
- 第2節 神の働き,,023
天地金乃神様がお守りくださっていることを1番早く知るには、夏の土用に自分の腹をおさえてみよ。腹は冷たい。また、冬の寒中には、体の内へご陽気をお与えくださるので生きておられる。このようにお守りくださっている。4季に応じて昼夜の区別なく、息のさし引きまでお守りくださるのである。
- 第2節 神の働き,,024
鳥や獣がどのようにして生きていくかを考えてみても、神のお恵みがわかる。冬になったといって重ね着をするでもなく、夏になっても1枚も脱ぐことはない。神はそれでちゃんとさしつかえないように育てておられる。牛などが子を産んでも、別に親が暖めてやることもないが、それでも大きくなる。木にしても、はじめは目にも見えないような双葉であるが、だれが育てるということもないのに、大木になって世のためになる。人はみなその恩を受けている。このようなことを考えてみても、神のありがたいことがわかる。みなよく物の道理を知って信心しなければならない。
- 第2節 神の働き,,025
山にも種々の物ができ、皮にもいろいろの魚がいる。海にも種々の魚がいる。これを漁師が取って商人が売買し、だれでも好きな物を買い求めて食べ、体を丈夫にして世の中のために働くように神がお守りくだされている。なんでも世の中の実物にあたって考えれば、しだいにありがたいことがわかる。4季に応じて、毎年、人間が楽しみ待っている物ができる。それを買い求めて食べ、体を丈夫にしていただけるのである。4季の変わりは人の力では自由にならない。
- 第2節 神の働き,,026
水が毒というが、水を毒と思うな。水は薬という気になれ。水を薬という気になれば、腹の病気はさせない。みずあたりということも言うな。水がなくては1日も暮らせまい。稲の1穂も5合の水をもって締め固めるというではないか。水の恩を知れ。
- 第2節 神の働き,,027
神は、体の毒を日に日に大便小便で取ってくださる。
- 第3節 神の心,,028
神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。
- 第3節 神の心,,029
広い世間には、鬼のような心を持っている者もないとは言えないが、人間であったら、気の毒な者を見たり難儀な者の話を聞けば、かわいそうになあ、何とかしてあげたらと思うものである。神の心は、このかわいいの1心である。
- 第3節 神の心,,030
「烏をおとりにしてかすみ網で雀を捕っていました。かわいそうなことをすると思いました。」と申しあげたら、金光様は、「かわいいと思う心が、そのまま神である。それが神である。」と仰せられた。
- 第3節 神の心,,031
人間がおかげを受けてくれなければ、神も金光大神もうれしくない。人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない。
- 第3節 神の心,,032
同じように腹を痛めた子であれば、かわいさに違いはないはずであるが、それなのに、不幸せな子ほどふびんであろう。神もそのとおりで、難の多い、不幸せな者ほど、おぼしめしが強い。
- 第3節 神の心,,033
親は、心配させる不肖な子ほどふびんに思うであろう。神も、神の心を知らないでいる者ほどかわいいと仰せになる。親を頼って来る子には、うまい物でもやれるが、来いと言っても、何かと逆らい、親を敵のようにして、よそへ出てしまうと、どうしているだろうかとふびんに思う。親がそうして子をかわいがるのも、神が人間をかわいがってくださるのも、同じことである。
- 第3節 神の心,,034
不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。
- 第3節 神の心,,035
自分の信心が足りないためにおかげを受けられないのを、神のおかげがないように思っている。神はこれが情けなくてならない。
- 第3節 神の心,,036
よく、神に捨てられた捨てられたと言うが、神はめったに捨てはしない。みな、人間の方から神を捨てるのである。
- 第3節 神の心,,037
神を親と思って信心をしていれば神の方から子と思う。たとえて言えば、子供のそばに、親がいなければ、悪い者に棒でたたかれることもあるが、親がついていればたたかれることはない。悪事災難は棒を持って来るのではないから、しのごうと思ってもしのげないけれども、神を父母と思って信心していれば、目に見えない所は神が守ってくださる。
- 第3節 神の心,,038
神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である。
- 第4節 人間,,039
天地金乃神はこの世の親神であるから、天地金乃神に信心しているといっても、していないといっても、天地の間に生きているからには、天地金乃神の子に変わりはない。
- 第4節 人間,,040
天が下の者はみな、神の氏子である。天が下に他人はない。
- 第4節 人間,,041
人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人である。
- 第4節 人間,,042
疑いを放して広い真の大道を知れよ。わが身は神徳の中に生かされている。
- 第4節 人間,,043
牛は人間とは違い、寒い時でも寒さの用意もしないで、毛があるだけで、冬の寒中かぜもひかない。これは飼っている人間の力にはおよばない。鶏も山の鳥類、獣も同様である。みな、神がお守りくださっていることを悟るのが人間である。
- 第4節 人間,,044
人間は小天地で、自分の頭をいつも神がお守りくだされているから、自分の体を思うように使えるのである。
- 第4節 人間,,045
人間はみな天地金乃神から人体を受け、霊を分けていただき、日々天地の調えてくださる食物をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父、地は母というであろう。天地金乃神は人間の親である。信心する者は、1生死なない父母に巡り会い、おかげを受けていくのである。
- 第4節 人間,,046
これまでは懐妊中の事柄を教えた者がないため、種々のことに迷っている。人間は何のおかげでできるのか。母の胎内に宿り、妊娠したというのは、神が御霊を授けてくださった時である。この御霊は、医師が腹を開いて、これが御霊であると言って人に見せることはできない。人間の目に見えない神から、肉眼で見ることのできない御霊をお授けくださるということは、ありがたいことである。人間の肉体は、母親が好きな物を食べ、血の増えるのをもとにして、1人の体が造られ、十月前後で出産して、男子である、女子であると言う。懐妊中、神のお恵みでお造りくださるのである。
- 第4節 人間,,047
夫婦は他人の寄り合いである。仲よくすれば1代安心に暮らせる。夫婦げんかをしても、あとから心が折り合う時、よく考えてみるとわけがわかる。この事柄を自分でわかるということは、神からお与えくだされた御霊が、体の司だからである。
- 第4節 人間,,048
神も人も同じこと。いくら神を拝んでも、人の心にかなわなければ神の心にもかなわない。神の心にかなわなければ人の心にもかなわない。
- 第4節 人間,,049
人が人を助けるのが人間である。人間は、子供がころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない。人間が見ると、助けてやれる。牛馬や犬猫の痛い時に人間が介抱して助けてやることは、だれでもあろう。人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ。
- 第4節 人間,,050
わが身はわが自由にならないものである。
- 第4節 人間,,051
障子1重がままならない人の身である。
- 第4節 人間,,052
人間を軽く見るな。軽く見たらおかげはない。
- 第4節 人間,,053
どの宗教を信じていてもくさすことはない。みな、天地金乃神のいとし子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり、商売好きな子もあるというようなものである。宗教が分かれているといっても、人はみな神の子で、それぞれに分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで成り立っているのであるから、くさすことはない。
- 第4節 人間,,054
人のことをそしる者がある。神道はどう、仏教がこうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、1人は僧侶になり、1人は神父になり、1人は神主になり、また、役人になり、職人になり、商人になりというようになった時、親は、その子供の中でだれかがそしられて、うれしいと思うだろうか。他人をそしるのは、神の心にかなわない。釈迦もキリストもどの宗祖も、みな神のいとし子である。
- 第5節 生と死,,055
生きている間も死んだ後も天と地はわが住みかである。生きても死んでも天地のお世話になることを悟れ。
- 第5節 生と死,,056
お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげである。人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。
- 第5節 生と死,,057
生きている時だけ天地金乃神のお世話になるように思っている者もあるが、死んでもお世話にならなければならない。魂は神からお下げくださったものであるから、天からお暇が出たら、また神のおひざもとに納まり、体は地から生じたものであるから、地に納まってお世話にならなければならない。
- 第5節 生と死,,058
神のおかげで生まれてきた人間であるから、死ぬのも神のおかげでなくて死ねるものか。そうであるから、生まれたのがめでたいなら、死んで神になるのは、なおのことめでたいではないか。死ぬのがつらいと言うのは、まだ、死ぬのをいとわないだけの安心ができていないからである。信心して、早く安心のおかげを受けておかなければならない。神のお計らいでは、いついくかも知れないのに、その際のうろたえ信心では間に合わない。平生から、まさかの折にうろたえないだけの信心をしておかなければならない。
- 第5節 生と死,,059
みな、神の分け御霊を授けてもらい、肉体を与えてもらって、この世へ生まれて来ているのである。そうしてみれば、この世を去るのに苦痛難儀をするのは、人間の心からのことである。神様からお授けくださった体がこの世を去る時、痛いかゆいがないよう、ただ年病みのゆえというように長生きをし、孫子まで見て、安心して死ぬのが、神の分け御霊をいただいている者のすることである。金光大神の教えを守れば、末を楽しみ、安心してこの世を去ることができるから、若い時に信心して元気に働いておいて、そのようなおかげを受けるがよい。
- 第5節 生と死,,060
死ぬ用意をすな。生きる用意をせよ。死んだら土になるのみ。
- 第5節 生と死,,061
寿命のない者にも寿命をお授けくださる。それなのに、中には、死ねばくつろげるのにお迎えが来ないなどと、わが身から覚悟し、命を縮めるようなことを言う。愚かなことではないか。死ななければくつろげないくらいの人なら、死後も安楽はおぼつかない。
- 第5節 生と死,,062
金光様に、「世間では、死んだ後に地獄へ行くとか極楽へ行くとか、いろいろに申しますが、いったい、人間は死んだ後どこへ行くのでしょうか」とお伺いしたら、「金光大神もまだ修行中で、死んだ後のことまではわからないが、この世に生きて働いている間に、日々安心して正しい道さえ踏んでいれば、死んだ後のことは心配をしなくてもよい」と仰せられた。
- 第5節 生と死,,063
「金光様、宗教がたくさんあっていろいろの教えがありますが、死んだら、魂はいろいろに分かれるのでしょうか」と伺った。金光様は、「そういうことはありはしない。死んだ者の魂は、天地の間にふうふうと、ぶゆが飛ぶように遊んでいるので、どこへ行くのでもない。わが家の内の霊舎にいるし、わが墓所に体をうずめていることからすれば、墓所と霊舎とで遊んでいるのである。この世で生きている間に、人に悪いことをしたり、神のみ心にかなわないことをしたりすると、死んでからでも、魂は神のおとがめを受けるのである」と仰せられた。
- 第5節 生と死,,064
先祖代々からのご無礼があっても、食べる物の初穂を供えて、お断りを言えば許してくださる。道の立たない御霊でも、願えば道を立ててくださる。何事も失態のないように、成就するようにと、天地金乃神にすがればよい。
- 第5節 生と死,,065
死ぬというのは、みな神のもとへ帰るのである。魂は生き通しであるが、体は死ぬ。体は地から生じて、もとの地に帰るが、魂は天から授けられて、また天へ帰るのである。死ぬというのは、魂と体とが分かれることである。
- 第5節 生と死,,066
金光大神が、「死ぬということはどういうものでありましょうか」と神におたずねしたところ、「死ぬのは寝入っているのと同様である。死ぬことをいとうな」と仰せられた。
- 第5節 生と死,,067
若死にをすると、みな嘆いて心を苦しめるが、稲にも、早稲、中手、晩稲とあるようなもので、早く死んでも、子供ができてから死ぬのは、早稲のようなものである。まだ子のないのに死ぬのは、実らない白穂になったと同じである。死ぬということは、もみを臼でひいた時、殻と実とが分かれるようなものである。時が来れば魂と体とが分かれるのである。
- 第5節 生と死,,068
人間は生き通しが大切である。生き通しとは、死んでから後、人が拝んでくれるようになることである。
- 第5節 生と死,,069
人間は万物の霊長であるから、死んだ後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。
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