金光教

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  教典抄

第1章〜5章
 神と人間、人間の難儀、信心とおかげ、信心の実戦、信心の心得、信心と生活、生神の道,
第1節〜5節
 ・ 神の働き ・ 神の心 ・ 人間 ・ 生と死 ・ 神への無礼 ・ 難儀のもと ・ めぐり ・ 信心 (信心、わが心、信心の成長、信心と道徳) ・ おかげ ・  ・ 信心の仕方 (参拝、取次、祈念、お願い、お礼、お断り、おわび、お供え、修行、祭り) ・ 信心の心得 (日常の信心、一心、お任せ、難儀の受けとめ方、先の楽しみ、辛抱・堪忍、我欲・油断・慢心、思いやり) ・ 信心と生活 (仕事、財、食事、家庭、信心の継承、妊娠、出産、徳育、病気、習俗) ・ 信心と社会 ・ 生神金光大神 ・ 神になる ・ 人を助ける (人を祈る、話をする、親切を尽くす) ・ 道を広める




第4章,信心の実践
  •  第1節 信心の仕方,参拝,144
  •   神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからと、大儀に思ってはならない。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行である。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,145
  •   参拝するのに手間がかかる、暇がかかると思ってはならない。それだけの手間暇は、神がすぐに取り返させてくださる。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,146
  •   みな、忙しいからなかなかお参りができませんと言う。無理に忙しい時に参れと言うのではないが、おかげを受けていれば暇な日という日があるものか。今日は雨が降ったからお参りしよう、今日は休みだからおかげを受けようと、暇をつくって参り、おかげを受けるがよい。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,147
  •   信心は手厚くせよ。わが家で信心しておりますと言うのは、信心の抜けはじめである。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,148
  •   たびたび参って来なくてもよい。参って来ても、金をこれだけ使った、これだけあればあのことができたのにと思うようでは、神に心配をかけるようなものである。神は親であるから、子がお金の心配をするのは、かわいそうに思われる。無理にたくさんのお金を使って参らなくても、わが家で信心しても守ってくださる。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,149
  •   参るな、参るなと言っても、参らないとおかげは受けられない。金光大神が参るなと言うのは、参ってもおかげを受けなければ、足がくたびれたり大切なお金を使ったりするだけで、参って来る者が困ることになる。それで、参るなと言うのである。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,150
  •   私1人が参った時には、金光様は、「たびたびよく参って来るなあ。参って来れば、来るだけのおかげがあるからなあ」と言われた。しかし、大勢連れだって、途中、船の渡し賃を払わなかったり、ひばりを捕るようなことをして参った時には、「遠方を参って来なくても、わが家で壁でも拝んでおくがよい」と仰せられた。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,151
  •   参って来なさいとは言わないが、たびたび参った人は、たびたび参っただけの神徳はいただけるであろう。たとえば、学校へ長く行った人は、何かと知っていることが多い。たびたび参ってくる人は」、金光大神の話を聞き覚えて、何かと知ることがあろう。 また、たびたび参っても、自分の思うことを頼み、帰ることを急ぐ人は、勝手な信心で、金光大神の話すことは何もわからないであろう。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,152
  •   よく、ちょっと前を通りましたからついでに参らせてもらいましたと言って、上がり口で拝んで帰ろうとする者があるが、ついでに参るからおかげがついでになる。同じように前を通ったのでも、わざわざここまで寄って参らせてもらったという心で、神前へあがって拝礼をしてみよ。神はわざわざのおかげをくださる。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,153
  •   参って来なさいとは言わないが、たびたび参った人は、たびたび参っただけの神徳はいただけるであろう。たとえば、学校へ長く行った人は、何かと知っていることが多い。たびたび参って来る人は、金光大神の話しを聞き覚えて、何かと知ることがあろう。また、たびたび参っても、自分の思うことを頼み、帰ることを急ぐ人は、勝手な信心で、金光大神の話すことは何もわからないであろう。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,153
  •   痛い時はお願い参り、痛くない時が信心参り。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,154
  •   参る者のほとんどはお願いに参るのに、あなたは、いつもおかげを受けているお礼に参って来る。神も満足に思う。おかげを受けてお礼に参って来ると、神も喜び、金光大神もひときわうれしいが、本人もうれしいであろう。人間がおかげを受けて喜ばないと、神も喜べない。
  •  第1節 信心の仕方,参拝,155
  •   広前は信心のけいこをする所であるから、よくけいこをして帰れ。夜中にどういうことがないとも限らない。おかげはわが家でいただけ。子供がある者や日雇いの者は、わが家を出て来るわけにはいかない。病人があったりすれば、それをほうっておいて参って来ることはできないから、家族中が健康な時に、ここへ参って来て信心のけいこをしておけ。
  •  第1節 信心の仕方,取次,156
  •   願うことは、何事もかなわないということはない。金光大神の手続きをもって願え。何事もおかげがいただける。
  •  第1節 信心の仕方,取次,157
  •   神の広前を勤める者は、神の守り、神の前立ちである。神のお手代わりである。
  •  第1節 信心の仕方,取次,158
  •   神の取次は神がする。真の信心がある者は神である。そうであるから、神の取次ができるのである。狐や蛇や鳥などに、どうして神の取次ができようか。何の神は狐が使わしめ、何の神は蛇が使わしめなどと、いろいろなことを言う人があるが、天地金乃神は、神の子である人をもって使いとなさる。
  •  第1節 信心の仕方,取次,159
  •   神が天地の理を説いて、安心の道を授けてやる。
  •  第1節 信心の仕方,取次,160
  •   金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話しで助かるのである。
  •  第1節 信心の仕方,取次,161
  •   ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはない。神の言うことは道に落としてしまい、自分勝手にして、神を恨む者もある。神の1言は千両の金にもかえられない。ありがたく受けて帰れば、船にも車にも積めないほどの神徳がいただける。心の内を改めることが第1である。
  •  第1節 信心の仕方,取次,162
  •   差し支えのないように仕事を早くすませたり、仕事のくり合わせをつけておいて参って来て、話しを聞いて信心の勉強をするのである。そうすると、ひとりでにおかげが受けられるようになる。
  •  第1節 信心の仕方,取次,163
  •   信心は話しを聞くだけでは十分でない。わが心からも練り出すがよい。
  •  第1節 信心の仕方,取次,164
  •   いくら学問がある、よく理屈がわかっているといっても、神信心のことは、わかっただけでは役に立たない。わが心に食いこんで、事にあたって実際に出てこなければ、神の徳はいただけない。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,165
  •   神は昼夜も遠い近いも問わない。頼む心にへだてなく祈れ。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,166
  •   神を礼拝するのに、別に決まりはない。実意丁寧、正直、真1心がかなめである。日々生かされているお礼を申し、次に、お互い凡夫の身で、知らず知らずにご無礼、お粗末、お気障りなどをしている道理であるから、それをお断りおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがよい。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,167
  •   信心といっても別にむずかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたら神にお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。そして、帰って来たら、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,168
  •   神を本気で拝むには、拍手を打って神前に向かったら、たとえ槍先で突かれても後ろを振り向いてはならない。物音や物声を聞くようでは、神に1心は届かない。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,169
  •   いかにありがたそうに拝みことばを唱えても、心に真がなければ神にうそを言うのと同様である。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばない。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声を出したり節をつけたりしなくても、人にものを言うとおりに拝め。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,170
  •   はじめは、お祓を1週間に1万回も唱えていたが、後、そのことを金光様にお話し申しあげたところ、「拝み信心をするな。真でなければいけない」と言われた。また、「神を拝むのに手や口を洗っても、心を洗わなければ何にもならない。心は火や水では洗えない。真1心で心を洗って信心をせよ」とも教えてくださった。
  •  第1節 信心の仕方,祈念,171
  •   手を洗ったり口をすすいだりしなければ信心はできないことはない。農作業をしていて、肥料をあつかっている間に事が起こった時、手を洗ったり口をすすいだりしていては間に合わない。そうしたときには、すぐそのまま拝礼してお頼み申せばよい。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,172
  •   天地の間に住む人間は神の氏子である。身の上に痛みや病気があっては、家業ができがたい。身の上安全を願い、家業出精、5穀成就、牛馬にいたるまで、身の上のこと何事でも、実意をもって願え。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,173
  •   大きなことはお願いし、このくらいは構わないと言うことはない。神には、大きいこと小さいことの区別はない。何事にも神のおかげをいただかなければならない。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,174
  •   病気にでもなると、だれでも人には話すが、神に申しあげることはしない。人には言わなくても神に申しあげてお願いすれば、おかげが受けられる。拝み方は知らなくても、1心にすがればおかげをくださる。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,175
  •   願い事があると、遠方からわざわざ参って来て頼む人が多い。人を頼むにはおよばない。真の信心をして、自分で願っておかげをいただけ。人を頼まなければ、おかげがいただけないとすれば、取次をする者のそばにつききりでいなければなるまい。神はそういうものではない。自分で願って、自分でおかげをいただけ。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,176
  •   自分から日切りをして願え。1週間とか1日とか、今のことを今とお願い申して、おかげを受けよ。1度日切りをしてお願いし、おかげのしるしがなければ、重ねて願え。それでもしるしがなければ、なおもう1度と、3度までは押して願え。願主があきらめてはいけない。押して願っておかげを受けよ。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,177
  •   みな、おかげを受けるために参って来ているはずであるが、中には、神が「おかげをやろうやろう」と言われるのに、「いや、結構です」と言って帰る者もある。おかげをぜひいただかなければ帰らないという気でいる者こそ、おかげがいただけるのである。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,178
  •   商売上のことを願ったところ、金光様は、「あなたの家には病人があるのに、それをほっておいて願いもしないで、不孝な者である」と言われ、「よく考えてみると中風で動けない老人がいます」と申したら、「それをそのままにしておいてもよいか」と仰せられた。「治るでありましょうか」と申したら、「老人だからといって治らないことはない」と仰せられ、信心して全快した。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,179
  •   死んだからといって、神のおかげを受けないではいられまい。死に際にもお願いせよ。
  •  第1節 信心の仕方,お願い,180
  •   容赦をするな。鐘は打ち割る心でつけ。太鼓はたたき破る気でたたけ。割れも破れもしない。ただ、その人の打ちよう、たたきようしだい。天地に鳴り渡ってみせよう。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,181
  •   生きている者にはみな、おかげをやってある。恩を忘れるなよ。その中にも、まことのおかげを受ける者が、千人に1人もない。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,182
  •   あなた方は小さい所に気をつけて、夜分に提灯を借りても、手みやげをつけて、ありがとうと礼を言って返す。それならば、日乃神(太陽)にはどのくらい大きなお礼を申しても、過ぎることはあるまい。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,183
  •   信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,184
  •   道で夕立に遭うと、お世話になりますと言って軒下を借りて、雨がもうやむかもうやむかと空ばかり見ているが、小やみになると、やんだやんだと言って、ろくろく礼も言わないで出て行く。そのような信心では、おかげにならない。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,185
  •   九死に1生のお願いでどうでもおかげをいただこうと、1心になっている時のように、お礼が本気で言えたらよい。願うことはすぐにできても、お礼はなかなか言えない。お願い1度にお礼十度というように、お礼を言う心が厚いほど信心が厚い。信心が厚いほどおかげが厚い。
  •  第1節 信心の仕方,お礼,186
  •   「金光様、なにぶん突然にお参りをしましたので、何もお礼を持って来ておりませんが、何をお供えすれば神様がお喜びくださるでしょうか」とお伺いすると、「何もお礼を出すことはいらない。自分が受けたおかげを手本にして世の中の人を救ってあげれば、お礼になる」と仰せになった。そこで、「私のような学問も何もない者には、それはむずかしいことです」とお答えすると、「学問のある者しか神は使わないというわけではない。学問はなくても真の徳をいただけば、さしつかえはない。自分が受けたおかげを手本にしていくのであるから、むずかしいことはない。ご用をさせていただけ」と仰せられた。
  •  第1節 信心の仕方,お断り・おわび,187
  •   自分が悪かったと得心してお断りを申したら、神は叱ってはくださっても、罰はお当てにならない。すぐにお許しくださる。神は、常に人間がかわいいとの思いでおられるのである。
  •  第1節 信心の仕方,お断り・おわび,188
  •   「先祖からのご無礼がありましょうとも許してくださいませ。日々信心いたしますから、信心の徳をもって、どのようなめぐりもお取り払いくださいませ」と言って願うがよい。
  •  第1節 信心の仕方,お断り・おわび,189
  •   先祖、先祖からの罪をわびよ。めぐりは、ひなたの氷のようにお取り払いくださる。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,190
  •   神の教えどおりに願って、願いどおりのおかげを受け、ありがたいと言ってお礼に供える物は、神も喜ぶ。末の繁盛を守ってやる。お札やお守りの代金、初穂、益を取るなどという神とは、神がちがう。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,191
  •   金光大神は金銭を目当てに拝むのではない。難儀な人を助けなければならないから、「お供えのことを思わないで、こづかいだけのくり合わせを受けられた時に参りなさい」と話しているのである。信心しておかげを受けた時に、心任せのお供えができるようになれば、供えた者も喜びであろう。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,192
  •   長者の万灯、貧者の1灯ということがあろう。その貧者の1灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわない。1本の線香さえ供えられない者は、1本を半分に折って供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,193
  •   神は供えたお金をただで取りはしない。昔から1粒万倍というであろう。大地に米を1粒まいてみよ、1合になるであろう。また、年が明けてその1合をまいてみよ、1俵になろう。天地の神に供えた物は、そのようなもので、1粒万倍にして返してやる。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,194
  •   人が真から供えるのは神にも喜ばしいが、寄付を募って人を痛めては、神は喜ばない。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,195
  •   「今日は少々寄付をしようと思って参りました。よそでは寄付札を立てたりしますが、こちらでは、そういうことはなさらないのですか」とお伺いすると、「あの人がいくら寄付したので、私もこれくらいしなければということになり、それがたちまち神への信心に不浄を入れることになるから、いくら寄付されても、そういうことはしないのである」と仰せられた。「寄付帳とか受付とかはありませんか」と申しあげると、「はい、それもない。神へ供えられるのなら、ただ、さい銭箱に入れておかれても同じことである。金がなければ信心できないとなれば、貧乏人はみな死ななければならない。私の方では、お供えをする物がないといっても、ご神米を下げるのである」と仰せられた。私は大金を持って来たので歓待されるかと思っていたが、調子はずれの話で間が抜けたことであった。そこで、そのお金を出して、「ご普請へ寄付いたしたい」と申しあげると、「はい」といわれ、ご祈念くださった。ご祈念が終わってお結界に下がられ、何も仰せられないでただお座りになっていた。私は心の内で茶づけでも食べよと言われるのかと思っていたが、何のこともなかった。お礼を申して帰ろうとしたら、いつものとおり、「それは、ご苦労であった」と言われただけであった。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,196
  •   お供え物とおかげは、つきものではない。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,197
  •   家族1同、仲よくして信心せよ。彼岸もちなどをこしらえる時に、子供がそばで、くれ、くれと言うのを、神に供える前はいけないと言って頭をたたいたりしては、神は喜ばない。先に子供にやって喜ばせておいて、それから神に供えてくれれば神は喜ぶ。招かれて行っても、台所で子供が頭をたたかれて泣いたりしていては、ごちそうを出してくれても、うれしくはないであろう。
  •  第1節 信心の仕方,お供え,198
  •   農作業で忙しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。
  •  第1節 信心の仕方,修行,199
  •   表行よりは心行をせよ。
  •  第1節 信心の仕方,修行,200
  •   世の中に表行をいろいろする人がある。寒行として拝んで歩いている人もあるが、心行といって、人に不足を思わないで、物事の不自由を行とし、家業を勤め、身分相応を過ごさないよう倹約をし、だれにも言わないで行えば、これが心行である。
  •  第1節 信心の仕方,修行,201
  •   世間には、水の行、火の行などがあり、いろいろの物断ちをする人もあるが、そのような行はしなくてもよい。巡礼のように白い着物を着てあちらこちらを巡り歩く暇に、毎日の家業を信心の行と心得て勤め、おかげを受けるがよい。
  •  第1節 信心の仕方,修行,202
  •   水をかぶって行をするというが、体にかぶっても何にもならない。心にかぶれ。寒3十日の水行をするといっても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。家内や子供の病気のために水をかぶって、1週間日参をしても治らなければ、自分の体に傷がつくだけである。水をかぶったから真である、水をかぶらないから真がないとはいえない。食わずの行をするのは、金光大神は大嫌いである。食べて飲んで体を大切にして信心をせよ。
  •  第1節 信心の仕方,修行,203
  •   「しばらくの間、山に入って修行させていただきとうございますが、いかがなものでしょうか」と申しあげると、金光様は、「山に入ったら、どのようにして修行をするのか」とたずねられた。「山に入ると、はじめは麦粉を練った団子で命をつなぎます。それをしばらく続けると、次には木の実や木の葉で生きられるようになります。またしばらくすると、ついには水ばかりで生きられるようになってまいります」と申しあげると、「いったい、どんな山に入るのか」と仰せになったので、「なるべく深い山に入って、浮き世を逃れるつもりでおります」と申しあげた。金光様は、「それは結構である。しかし、何もわざわざそんな不自由な山に行かなくても、心の中に山をこしらえて、その中で修行をしたらそれでよい。自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、また家内のこしらえたものがまずくても、けっして不足を言うことはないであろう」と仰せられた。
  •  第1節 信心の仕方,修行,204
  •   人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい。
  •  第1節 信心の仕方,修行,205
  •   座敷、押し入れ、板の間にちりが積もるように、人間は我欲のためにわが心にちりが積もる。わが心わが身が汚れないように、心と体の掃除をするつもりで、今月今日で信心をせよ。
  •  第1節 信心の仕方,祭り,206
  •   家を建てる時、まず神をどこにまつるかを考えて後、床の間や座敷を考えるようにすれば、子孫も家も繁盛する。
  •  第1節 信心の仕方,祭り,207
  •   祭り日は、信心を忘れないための大切な日である。この祭り日を忘れさえしなければおかげがある。忘れたらおかげはない。親の恩を忘れないための法事のようなものである。何事にも恩を忘れてはならない。
  •  第1節 信心の仕方,祭り,208
  •   御霊の祭りは大切にせよ。
  •  第1節 信心の仕方,祭り,209
  •   木のもとへ肥料をやれば、枝振りまで栄える。先祖や親を大切にすれば繁盛させてくださる。
  •  第1節 信心の仕方,祭り,210
  •   分家をすると、うちにはまつる御霊がないと十人のうち九人まで言うが、それは大きな間違いである。人にはみな先祖というものがある。押し入れのはしにでも、先祖様と言ってまつらなければならない。


  •  第2節 信心の心得,日常の信心,211
  •   何事にも、自分でしようとすると無理ができる。神にさせていただく心であれば、神がさせてくださる。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,212
  •   信心をしても、何もかも捨ててとびこんでしまうような信心をするな。茶づけでも食べているような心持ちで信心せよ。節のあるところで、あわててのこぎりをひくと、のこぎりの歯が折れる。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,213
  •   ふだんから、神に取りすがっていれば、神と心安くならせてもらっているのと同様である。無理も聞いていただける。大難は小難にまつりかえてくださり、小難は無難にお取り払いくださる。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,214
  •   「信心する者は、いつも、心にみきを供えて祈れ。いっさいの願い事を成就させてやる」と金光様が教えてくださった。信心する者は、これを忘れてはならない。みきというのは、ありがたき、恐れ多き、もったいなきの3つのきである。信心する者の心からこの3つのきが抜けたら、おかげは受けられない。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,215
  •   ふだんはふだんでおかげを受けなければならないが、いざという時にはなおのことおかげを受けなければならない。どのような時にでも、置き場を忘れて探し回ることのないように、信心の心は肌身離さず持っていないと、用心が悪い。いざという時には裸でも、田んぼの中でもよい、「金光様、お願いします」と頼めば、すぐおかげをくださる。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,216
  •   人を頼むにも、日常心安くしておかないと間に合わない。神も、常日ごろの信心がなければ、いざという時に間に合わない。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,217
  •   「世の中には強欲非道な人間でも不思議におかげをいただくことがありますが、あれはどういうわけでございましょうか」とお伺いすると、「いかに性根の悪い人間でも、1心にその時だけ改まって信心すれば、1時はおかげを受けるものである。ちょうど、やせ地に肥料をやれば1時はできるようなもので、長続きはしない。おかげを受けた時の心を忘れないように、日に日に心を改めて信心しなければならない」と仰せられた。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,218
  •   病気災難があったからといって、にわかに信心を始めるよりは、ふだんから手厚く信心しておれ。手厚い信者であれば、神から心配してやる。いかに大病とか九死とかいう病気でも、峠を越えさせて全快させてやる。とかく信心の地を肥やしておけよ。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,219
  •   手厚く信心をする者は夢でもうかつに見るな。神は、夢にでも良し悪しを教えてくださる。
  •  第2節 信心の心得,日常の信心,220
  •   めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂る、とめでたい時に歌うが、枝も栄え葉も茂るのは、幹が太るからである。幹が太るのは、地の中に目には見えないが、大きく根を張っているからである。もとになる根が枯れると、太い幹も茂った枝葉も枯れてしまう。日々信心の根張りをよくしていると、無常の風が吹いても、たおれることがない。おかげで枝葉も茂って繁盛する。これがめでたいのである。
  •  第2節 信心の心得,一心,221
  •   神があっての人間、人間があっての神であるから、病気災難をはじめ何事でも、非常と平常とにかかわりなく神に願いをかけよ。信心とは、常日ごろ、神の心のようになるのが信心である。手を合わせて拝むばかりが信心ではない。1心とは、1つの心と書く。2心のうろたえ心を出さないで、天地金乃神に1筋に取りすがるのが1心である。十分なおかげを受けるには、1心でなければならない。
  •  第2節 信心の心得,一心,222
  •   これまで、神がものを言って聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろう。それでも1心を立てれば、わが心に神がおられるからおかげになるのである。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはない。金光大神が祈るところは、天地金乃神と1心である。
  •  第2節 信心の心得,一心,223
  •   思う念力岩をもとおすというが、信心する者が1心を出して願えば、どんなことでもかなえてくださる。
  •  第2節 信心の心得,一心,224
  •   うろたえ信心をするな。早くおかげを受けたいと思ってうろたえるのは、近道をしようと思って知らない道でうろたえるのと同じことである。金光大神の信心は大道を行くようなものである。1心になって信心せよ。
  •  第2節 信心の心得,一心,225
  •   1心に信心すれば、おかげが受けられる。たとえて言えば、女の人でも、いよいよ1心を打ちこむ男は1人しかない。この人と思ったら、心の底から1心を出して、身も心も打ちこんでしまうのでなければ、まことの恋ではない。他の男を見下げるのでも嫌うのでもないけれど、身も心も打ちこんでいきたいのはこの人であるというのでなければならない。人にも、この人が親切であるとか、あの人が頼みがいがあるということがあろう。何事を頼むにも、1人に任すと、その人が自分のおよぶ限りの力を尽くして世話をしてくれる。2人、3人と頼むと、相談に暮れて物事がはかどらない。信心もこの1心を出すと、すぐにおかげがいただける。
  •  第2節 信心の心得,一心,226
  •   「1心になることは、はなはだむずかしいものと思います。拝みながら、いろいろのことが思われたりして、心の内が定まりませんが、どういうものでありましょうか」と申しあげると、「1心になる心は、子供をこしらえる時のようなぐあいに思い知れよ」と仰せられた。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,227
  •   天に任せよ、地にすがれよ。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,228
  •   4季の変わりは人の力におよばないことである。物事は時節に任せよ。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,229
  •   1生死なない父母に巡り会ったと思って、何事でも無理と思わないで天地金乃神にすがればよい。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,230
  •   金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,231
  •   建てた柱はたおれることがある。吊ったのれんにもたれる心になっておかげを受けよ。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,232
  •   金光大神は、どうにもならない時には、じっと寝入るような心持ちになるのである。あなた方もそういう心になるがよい。どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。じっと眠たくなるような心持ちになれ。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,233
  •   何事にも無理をするな。我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,234
  •   天地金乃神は天地を1目に見ている。神は平等におかげを授けるこれども、受け物が悪ければおかげが漏れる。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さなければおかげは受けられない。ままよとは、死んでもままよのことである。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,235
  •   わが子の病気でも、かわいい、かわいいと思ってうろたえてはいけない。言うことを聞かない時にも、ままよと思ってほうっておくような気になって信心をしてやれ。おかげが受けられる。
  •  第2節 信心の心得,お任せ,236
  •   いかなる大しけの時でも、金光大神を頼んで、助けてくださいと言って、船の向く方へ行かせるようにせよ。船の行かない方へわが力で進めようとするから、命を失うこともある。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,237
  •   信心していても、よいことばかりはない。悪いこともある。手にでも、表と裏とがあるようなもので、裏の出た時には、早く表の出るようにおかげを受けよ。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,238
  •   信心しているからといっても、みなの身の上のことが何もかも同じになるとはいかない。山の木が3十年たっている、5十年たっているといっても、同じような木ばかりはない。ある人は信心しないのに金持ちになることもあるし、信心してもなれないこともある。米麦をつくっても、実のない白穂もできるし病気の黒穂もできる。そのように、全部同じようにとはいかないので、心を広く持って信心しなければならない。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,239
  •   人間はみな、生まれる時に約束をしてきているのである。だから、家族が1人よりは2人、2人よりは3人、3人よりは5人と大勢いるほど、家庭の中にさまざまな難儀がある。幸いに信心をしていると、それを除いていただけるが、生まれたときの約束であるから、またこういうことが起きたというようなことが出てくるかも知れない。その時に、これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。これはまだ私の信心が足らないのだと思い、これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,240
  •   生まれた者には死ぬということがあり、死に方にもいろいろある。稲や麦にたとえて話せば、春、もみを苗代にまき、本田に植えつけ耕作しても、稲は白穂、麦は黒穂になることがある。子供が成長し、結婚し、その本人に子供のできないうちに死んだのは、白穂黒穂のようなものとあきらめるほかない。また、早稲、中手、晩稲などの種類に分けてあるが、人間にも短命長命の別があり、途中死にという難儀なこともある。その時、子供が後におれば、相続する人があるので早稲のようなものであると悟りを開いて、あきらめるほかない。万事におくり合わせをこうむるよう神に頼み、先を楽しむ信心をせよ。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,241
  •   子供が死んでも、おかげがなくて死んだというような不足を神へ向けてはならない。先祖代々私どものめぐりでこういうことになりましたと、お断り申すようにせよ。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,242
  •   信心する者は驚いてはならない。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはない。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,243
  •   心配する心で信心をせよ。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,244
  •   心配が増したり、物事を苦に病むようになるのは、信心が落ちた証拠である。その時、これをありがたく思って信心すると、これが修行になって、また1段と信心が進んでいく。そうでないと信心が落ちてしまって、心配や苦難に負けて、どうにもならないようになってしまう。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,245
  •   人間であるから、生きている間は先々のことを考えもしようし、心配の尽きる時はあるまいが、それがみなおかげになれば、心配はあるまい。心配は、信心すればみなおかげになる。心配は体に毒、神に無礼である。心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。おかげになる。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,246
  •   明日塩辛を食べるからといって、今日から水を飲んで待つわけにもいくまい。取り越し苦労をするな。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,247
  •   信心をしていれば神と心安いのと同じであるから、大難は小難に、小難は取り払いのおかげをやる。これほど信心をしても、まだこのような難を受けると言うのは、真の神徳を知らない者の言うことである。難は人間には計り知れないものである。熱心に信心している者でも、難が強く信心をやめる者がある。信心をして難の根の切れるおかげを受けなければならないのに、難の根よりも先に信心の根を切るのは、やはり真の神徳を知らない者のすることである。信心する者は、真の神徳を知らなければならない。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,248
  •   人間は、生まれる時に証文を書いてきているようなものである。生まれた時に、悔やみを言いに行ってもよいくらいのものである。どういう災難があるとか、こういう不幸があるとかいうことは、決まっているのである。神はよくご承知なのである。信心を強くすれば、大厄は小厄にしてくださり、小厄はお取り払いくださる。それが、おくり合わせをいただくということである。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,249
  •   大厄は小厄におまつりかえを、また、小厄はお取り払いをお願いせよ。物にたとえれば、たらいにいっぱいためた水を屋根の棟から少しずつ流してみよ。これが小厄のたとえである。それをどっと流すのが、大厄のたとえである。信心して、大厄は小厄にしてもらい、小厄はお取り払いいただければ、後は繁栄をいただける。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,250
  •   信心しながらも、次々に不幸せが重なると、「何かのしわざではないでしょうか。何かの罰ではないでしょうか」と言って参る者があるが、どうして、神がかわいい子に罰をお当てなさろうか。心得が違っている、気をつけよ、とお気づけがあるのであるから、今までとは心を改めて信心をすれば、不幸せがおかげになってくる。
  •  第2節 信心の心得,難儀の受けとめ方,251
  •   信心が厚くなるほどお試しがある。お試しがあるのはおかげである。
  •  第2節 信心の心得,先の楽しみ,252
  •   悪いことを言って待つなよ。先を楽しめ。
  •  第2節 信心の心得,先の楽しみ,253
  •   悪いことを思い出して苦にするな。今日が大切である。先を楽しめ。
  •  第2節 信心の心得,先の楽しみ,254
  •   若い時の信心は、老いての楽しみである。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,255
  •   何事も辛抱が大切である。信心においてはなおさらのこと、辛抱が弱くてはおかげが受けられない。中には、やけを起こして信心をやめる人がある。気の毒なことである。車でも心棒が弱ったり折れたりしたら、車が回らない。辛抱をしないで幸せを得た者は、あまりない。漁師でも農民でも商人でも、辛抱のない者は出世ができない。漁師や農民には風雨の天災があり、商人は損をしたりして、不幸せなことがある。それを辛抱していかなければ、幸せにはなれない。信心するにも辛抱が大切である。その証拠には、神殿のお扉を開いてみよ。ご幣か、み鏡のほかは何もない。ただただ、信心の辛抱でおかげが出るのである。神からおかげが出ると思わないで、信心からおかげが出ると思って、信心の辛抱を強くせよ。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,256
  •   桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早く散る。梅の花は苦労しているからすぐには散らない。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,257
  •   信心をしていても、なぜおかげがないのであろうかと思ってはならない。たとえば、麦をまいて肥料をやっておいても、正月ごろには、肥料をやらないのとまったく変わらないが、春先になると、肥料をやったのはずっと伸びてくる。信心もそのとおりであるから、怠らないで、1筋の心でせよ。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,258
  •   信心をして、おかげがあるとかないとか言うけれど、十年辛抱すればどんな者にでもおかげをくださる。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,259
  •   信心する人は、腹の立つことがあっても腹を立てないようにせよ。腹を立てては家の中に不和を起こすし、人とも仲違いをする。世間を見よ。後にはわが身を滅ぼす者がある。これは堪忍が足らないのである。堪忍は、ごく大切なものと心得よ。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,260
  •   堪忍はよくできても、腹の立つのをおさえこんでいるのでは気分をいためる。それでは、まだいけない。もう1つ進んで、腹の立つということを知らないようになれ。そうすれば、身の薬である。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,261
  •   信心する人は、十人の股はくぐっても、1人の肩は越すな。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,262
  •   負けてこらえておれ。負ければ損をするからばからしいと思うかも知れないが、神がまた、くり合わせてやる。そして、人からもよい人と言われるようになり、身に徳がついてくる。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,263
  •   理屈があっても、みなまで言うな。理屈とくさびは八分詰め。詰め過ぎると紙袋は裂ける。あいよかけよで世は治まるのである。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,264
  •   信心の浅い時には、人から悪しざまにそしられるとすぐ腹が立って、こらえきれないで、しっぺ返しのようなことをする。しかし、信心が少し進んでくれば、人からそしられると、腹は立つけれども、信心しているからと思ってこらえられるようになってくる。信心がずっと進んでくると、人からそしられても腹が立たない。腹が立つどころか、かえってその人が気の毒になる。
  •  第2節 信心の心得,辛抱・堪忍,265
  •   堪忍することをよく心得ておれ。堪忍さえ強かったら人と仲違いをすることはない。「ああ、ふびんなものだ。私はこうしてこらえているが、信心する心のない者は、ああいうことを聞いては青い顔をするであろう。そういう人は、神に願って、直してもらってあげたいものだ」という気になっておれ。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,266
  •   我情我欲を放して真の道を知れよ。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,267
  •   目先の欲を放して、先々の徳をいただけ。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,268
  •   猿も木から落ちる、弘法にも筆の誤りという。木に登っても、危ない危ないと思っていると、用心するからけがはないが、少し上手になると、大胆になって大けがをしたり命を落としたりする。慢心は大けがのもと、健康であっても信心の油断をしてはならない。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,269
  •   坂道を九分どおり登って、それで安心してはいけない。その坂を登り切って向こうへおりたら、それで安心せよ。途中で気を緩めると、すぐに後へもどる。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,270
  •   人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが1番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。慢心が出るとおかげを取りはずす。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,271
  •   おごりがましいことをするな。ものは、細くても長く続かなければ繁盛でない。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛である。道に草を生やすようなことをするな。
  •  第2節 信心の心得,我欲・油断・慢心,272
  •   習ったことを忘れてしまっても、それで師匠が得をすることはない。覚えていて、あの人のおかげで、ここまで出世ができたと言えば、それで恩を返すことになる。信心をしても、おかげを落としてしまっては、神は喜ばない。おかげを受けてくれれば神も喜ぶ。金光大神の話を聞いて、それでおかげになれば、金光大神も喜ぶ。人がおかげを受ければ、神も喜び、金光大神も喜び、人も喜ぶ。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,273
  •   真の信心をする人を見よ。慈悲深くするから、おかげで無病息災、諸事よいことが子孫へ続く。信心する人は慈悲深くして、真の信心をするがよい。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,274
  •   金光様は、「日に日に悪い心を持つなよ。人に悪いことを言われても、根に持ってはいけない」と言いぬいておられた。私が「それでも、向こうが悪い心を持って来れば悪い心になります」と申したら、「それでも、悪い心を持ってはいけない。よい心を持っているようにせよ」と仰せられた。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,275
  •   人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をあげたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいというような心を持つな。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,276
  •   どんな物でも、よい物は人に融通してあげれば人が喜ぶ。それで徳を受ける。人に物をあげる時でも、自分によい物を残しておくようなことではいけない。たとえ前かけ1枚でも、よい方をあげ、悪い方を自分が使うようにせよ。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,277
  •   信心する者は犬や猫にまで憎まれないようにせよ。また、犬や猫までも敵をつくるな。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,278
  •   ある年の夏にお広前にお参りすると、山蟻が何匹となくご神前の方へ這って行くので、お供え物にでもついてはならないと思い、「金光様、蟻がたくさんまいります」と申しあげると、「はい、蟻も参詣いたします。参詣すると、おかげをいただきます」と言われただけで見向きもされなかった。
  •  第2節 信心の心得,思いやり,279
  •   「苗代にひきがえるが入って卵を産んで困ります」と願う者に対して、金光様は、「よそでは封じると言うが、うちでは封じない。かえるに、あぜで遊んでもらうようにすればよい。うちの田に入らないようにすれば、よその田に入るから」と教えられた。

  •  第3節 信心と生活,仕事,280
  •   神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。毎日勤める家業は信心の行であるから、家業をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる。
  •  第3節 信心と生活,仕事,281
  •   重い物を背負っているか担いでいれば苦しいが、そうではないから信心は楽である。家業を勤めながら信心をせよ。
  •  第3節 信心と生活,仕事,282
  •   商売するというから神は見ている。商売させていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる。
  •  第3節 信心と生活,仕事,283
  •   農業するには、もみを水につける時、もみをつけさせてくださいと願い、苗代へまくときは、天地金乃神へ、あなたのお土地にまかせてくださいと願え。また、苗の生長と、病気、害虫のお取り払いを願え。田植えには、苗を3把ほど神に供えて、今から早稲植えをさせてくださいと言って願え。供えた苗をお土地に植えて、根つき、生長を願え。また、害虫、病気のないように、先では豊作をいただかせてくださいと願え。そのほかの作物を植え付けする時も同じように願え。よくよく心得て、天地のお徳をいただくがよい。
  •  第3節 信心と生活,財,284
  •   我を放せば神になるというが、人間は、生きている間は健康繁盛を願い、農家が5穀成就を願い、商売人が商売繁盛を願うのは当たり前の欲である。我を放さなければならないといって、商売人が損をしたり農家が穀物を取らなかったり、人間が早死にをしたりしたら国はもたない。
  •  第3節 信心と生活,財,285
  •   1年で金持ちになるような心になるな。先は長い。少しずつためたのは、尽きることはないが、1時に殖やしたのはなくなりやすい。信心をする者は、我欲なことをしてはならない。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より1年遅れて金持ちになる気でおれ。
  •  第3節 信心と生活,財,286
  •   貧乏していた時、「金光様、仕事は人の倍くらいもしますが貧乏で困ります」と申しあげたら、「それで貧乏ということはあるまい」と言われた。「でも、お金が残りませんから貧乏に相違ありません」と申したら、「それは、どこかに無駄があるのであろう。招かれて行くのに、先に茶づけを食べて行くようなことをしてはならない。ごちそうをいただく時には十分にいただき、ごちそうをする時には十分にしなければならない。1円の無駄をすれば十円の罰をこうむる。それは天地が許さないからである。百円の無駄は何でもないと思うであろうが、千円の罰をこうむるから貧乏をする。無駄をしないようにすれば出世もできる」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,財,287
  •   金光様に、「私は長い間信心させてもらっていますが、貧乏で困ります」と申しあげたら、「貧乏といって、食べない時があるか」とおたずねになった。「いや、食べられないことはありません」と申しあげたら、「いくら金や物を積み重ねていても、食べられないことがあってはどうにもなるまい。健康でご飯が食べられれば、それが金持ちと同じではないか」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,財,288
  •   金を人に貸し、催促をして相手を破産させたりするより、神にくり合わせを願ってあげよ。払ってもらって喜び、払って喜ぶようになれ。
  •  第3節 信心と生活,財,289
  •   人から出る日給はわかっても、神から出る日給はわかるまい。
  •  第3節 信心と生活,食事,290
  •   食物はみな、人の命のために天地の神が造り与えてくださるものである。
  •  第3節 信心と生活,食事,291
  •   何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れるな。
  •  第3節 信心と生活,食事,292
  •   食物を粗末にするくらいもったいないことはない。食べられるまでにするのは、容易でない。それなのに食べ物を捨てたり粗末にするのは、神のお恵みと人の骨折りとを粗末にしているのである。
  •  第3節 信心と生活,食事,293
  •   食物は、わが心で毒にも薬にもなるものである。
  •  第3節 信心と生活,食事,294
  •   人間は食べ物でできているのであるから、物を食べなければすぐにやせる。病気になると、欲しい物が食べられないので困る。その時に、不自由を行を思い、物を不足に思わないで、万事、神を1心に頼み、万物をありがたくいただく心を磨いていると、早くおかげが受けられる。
  •  第3節 信心と生活,食事,295
  •   大酒大食は絶食のもとになる。
  •  第3節 信心と生活,食事,296
  •   好きな食べ物は身の薬であるから、せいぜいいただくがよい。けれども、食べ過ぎると体に障る。それで腹八分目という例えもある。茶わんに八分目水を入れて持ってみよ。少し走ってもこぼれはしまい。そういう物の道理である。好きな物を食べて、もうよいと思ってから、また1杯飲めば1杯だけ、1膳食べれば1膳だけ神に無礼になる。
  •  第3節 信心と生活,食事,297
  •   食事をする時に、このくらいでよいと思う時が、天地の親神のご分霊が分限を定められる時である。それが体に合う量である。それを、もう1杯、また1杯と、我食い、我飲みして病気になる人もあるが、これは神へ対し無礼ではないか。また、食べ過ぎ飲み過ぎして、嘔吐をする者もあるが、これもよくない。信心する人は神の守りを心にかけており、万事不都合のないようにするのが信心である。飲食も無理に強いるのは親切ではない。国のため、人の身のため、わが身の上も思い、万事を粗末にしないような、真の信心をするがよい。
  •  第3節 信心と生活,家庭,298
  •   家族中、神のことを忘れるな。何事があっても人に頼ることをするな。良いことも悪いことも、神任せにせよ。心配をするな。世は変わるものである。辛抱せよ。とにかく、内輪はきげんよくせよ。ものの言い方でも、あなたこなたと言うがよい。何事もむだ口を言うな。
  •  第3節 信心と生活,家庭,299
  •   家族中親切にし合い、信心をすれば、心がそろうようになり、みなおかげを受けられる。親子でも、心が1つにならなければおかげにならない。
  •  第3節 信心と生活,家庭,300
  •   「家族が仲良くいきませんが、どうしたら、仲良くなるでしょうか」とお伺いすると、「それは、信心するとよい。信心は家庭に不和のないのがもとである。得をすると思って、物事をこらえるのが第1である。言い争わないのがもとである。家族中そのことを心得て信心すれば、万事におかげをくださる」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,家庭,301
  •   世間では勢信心ということを言うであろう。1人で持ちあがらない石でも、大勢で、よいしょと1度に力をそろえれば持ちあがる。家族中、力をそろえて信心をせよ。
  •  第3節 信心と生活,家庭,302
  •   女は神に近い。信心は女からである。
  •  第3節 信心と生活,家庭,303
  •   女の信心が、神のお楽しみお喜びである。懐妊の間、心を改め磨き、真心の子供を産んで養育せよ。日々食べ物の取りあつかいの注意不注意によって、病気にかかることもあり病気を除くこともある。子供の間は母親が子供の真心を作るのである。また、着物の洗濯をするのも子供の健康のためである。こうした役目を油断なく心がける者を見て神は楽しみ喜ばれる。ここに母親の大責任がある。神の前に参って自分の思うことを頼むばかりが信心ではない。神へ参らない時に信心することがたくさんある。
  •  第3節 信心と生活,家庭,304
  •   ある人が、子供の数が多くそれぞれ性格が違うので困っているとお願いした。金光様はその人に、「もし、5本の指がみな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役に立てるのである」と教えられた。
  •  第3節 信心と生活,家庭,305
  •   年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生まれて来たのではない。みな、神のおかげで生まれて来たのである。早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしている道理であるから、年寄りを敬うのである。
  •  第3節 信心と生活,家庭,306
  •   元気を出して信心せよ。年をとったのを苦に病むことはない。年をとっても1人前にできるのは信心だけである。信心していると、年を重ねるほど身に徳がついて、神がかわいがってくださり、若い者が大事にしてくれるようになる。
  •  第3節,信心と生活,家庭,307
  •   隠居は幾つ何十になってもするものではない。人は神が天地の内に働くようにお造りなされたのであるから、幾つ何十になっても手足の動く限りは働くのである。
  •  第3節 信心と生活,家庭,308
  •   人は1代、名は末代というが、人間は1代の内に、死んだ後へ名の残るようなことをしておくがよい。そのように思って働けば、年寄りが集まった時、若い者が礼を言わない、喜んでくれない、と不足話をしないですむ。若い者から、おじいさんおばあさん、話が聞きたい、と言われるような信心をせよ。
  •  第3節 信心と生活,信心の継承,309
  •   金光大神の話を聞いて信心する人は、その子孫が安心に日を暮らすようになる。子供に安心のことを伝えるのは、真の信心である。
  •  第3節 信心と生活,信心の継承,310
  •   信心は何を目的にすればよいか。病人は痛いのを治してもらいたいと願い、健康な者は、作物がよくできるようにとか、商売が繁盛するようにとか願って参るが、それは1時のことである。信心は、末の安心を楽しみにしないと続かない。末の安心のためには、自分1人がおかげを受けただけではなく、子孫に伝わる信心をすることが大切である。家庭が円満で、主人が信心しなければ、子孫には伝わらない。痛いのを願うのは信心の糸口ではあるが、それだけでは、治ればお礼参りをして、その後は参らないことになる。自分の心を改めて、よい子供を得ることを、信心の第1の目的としなければならない。1代の信心は神が喜ばれない。
  •  第3節 信心と生活,信心の継承,311
  •   氏神様の祭り日には、家々でたいそうなことをしてお祭りをするが、天地金乃神からは日々のおかげを受けておりながら、その祭り日には特別のこともしないで、ろうそく1本を供えるくらいのことである。白いご飯を炊いて、おなますでもつけて供えるようにせよ。そうすれば子供でも、お母様、何事ですかと言って聞くようになる。わけを話してやると、神の恩を知るようになり、大きくなって、だんだん自分でも尊ぶようになる。
  •  第3節 信心と生活,信心の継承,312
  •   子供が十5歳にもなれば、そろそろ身しのぎをする術を教えこまなければならない。自分のことは自分で信心しておかげを受けさせるようにしなければならない。親から見れば、大きくなっても子供のように思うけれど、かわいがり過ぎたり、世話をやき過ぎると、先のためにならない。かわいい子には旅をさせよ、ということがあろう。信心のありがたいことを話してやっていれば、ひとりでに親の跡を継いで信心するようになる。
  •  第3節 信心と生活,信心の継承,313
  •   話しを熱心に聞くのはよいが、わが家へ帰り、大変な信心家になって、うちの者を叱るばかりして困らせてはならない。世間には、あの人は講釈はよいが、という講釈だおれがある。信心する者は、神の話を聞いて納得したら、第1に、自分がしてみせて、それから言い聞かさなければならない。口ばかりの先生ではうちの者も聞かないし、神にも相すまないことになる。
  •  第3節 信心と生活,妊娠・出産,314
  •   子は、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵みによるものである。
  •  第3節 信心と生活,妊娠・出産,315
  •   女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかなければ尊いものができない。種をまいても、やせ畑にはよい作物ができない。女は妊娠の時が大事である。心の良い悪いは子にうつる。体に子が宿ると、食事が進み、珍しい物でも欲しいという心になりやすいが、隠れて食べるようなことでは、よい子はできない。陰ひなたの心を持った子ができるから、そばの者がよく気づかってあげるがよい。
  •  第3節 信心と生活,妊娠・出産,316
  •   懐妊中に、考え違いをして無礼をしたり、間引こうと思う者もあるが、神からお与えくださるだけは産んで養育するがよい。金は人間の力で調えられるが、子供は神のおかげでなければできないものである。子を産む者は、神のご用を勤めると思って辛抱すれば、これが信心になる。
  •  第3節 信心と生活,妊娠・出産,317
  •   子供が大勢できても、人間考えで間引くことはするなよ。神は、人間の寿命があるのとないのとは、よく承知している。人間ではそれがわからない。寿命のないものなら神が引き取ってやる。
  •  第3節 信心と生活,徳育,318
  •   母の胎内は器のようなものである。水は円い物に入れれば円く見え、4角の物に入れれば4角に見える。母親が真の心を持ち、神の子が胎内にいるという尊い心持ちで、家業を潔く勤め、親兄弟に親切をして、信心に油断なく、教育にも油断がなければ、よい子が育ち、先祖への無礼もなく、国も栄えるもとになる。日々家業を勤める心と真心とを失わないよう、今月今日で信心するがよい。
  •  第3節 信心と生活,徳育,319
  •   食物を粗末にすると罰が当たると言うが、そういうことは言わない方がよい。子供には、叱るより教えてやれ。穀物を作るのは農家であるが、それも、神のお恵みがなければできるものではない。神のお恵みをいただく心になるよう、子供に教えてやれ。
  •  第3節 信心と生活,徳育,320
  •   信心していれば、冗談にでも悪いことを言ってはならない。言うとおりになってくる。子供を叱るのでも心得ておれ。あほうをするな、ばかがなどと、言ったりして叱ってはならない。お利口だからするな、と言えば、子供もお利口だからやめようと思って利口になるが、あほう、あほうと言うと、あほうだからしてやれと思って、あほうになる。どうしても言うことを聞かない時は、黙って尻をつねっておけ。
  •  第3節 信心と生活,徳育,321
  •   子供を叱り叱り育てるな。叱り叱り育てると、大きくなって道楽者になる。また、恐れさせ恐れさせ育てると臆病になる。
  •  第3節 信心と生活,徳育,322
  •   子の頭をたたくより、自分の頭をたたけば、すぐおかげになる。
  •  第3節 信心と生活,病気,323
  •   体の丈夫を願え。体を作れ。何事も体がもとである
  •  第3節 信心と生活,病気,324
  •   痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである。
  •  第3節 信心と生活,病気,325
  •   神がお造りくださった人間であるから、病気にかかった時に、神に頼んで健康にしてもらうように願うのは、道理にかなった信心ではないか。
  •  第3節 信心と生活,病気,326
  •   みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ。
  •  第3節 信心と生活,病気,327
  •   信心しているから1生患わないと思うな。日や月でも、日食もあれば月食もある。そんな道理のものである。信心していても、人の身は生身であるから患うことはあるものと思い、また、患っても死なないと心に決めておけばよい。
  •  第3節 信心と生活,病気,328
  •   鉄でも使えばすり減る。人間は生身であるから痛いかゆいがあるのは当たり前である。鍬でも刃先の焼き直しをしたら、はじめよりよく切れるようなもので、人間も時々痛いかゆいがあるのは刃先の焼き直しである。これがもとで信心もできるようになり、これが修行になって信心も進んでいく。人間は勝手なものであるから、痛いかゆいがあると信心ができるが、何事もなかったら信心が寝入る。
  •  第3節 信心と生活,病気,329
  •   信心していて病気で苦しむ時は、刑の取りさばきであると思えばよい。辛抱せよ。その辛抱が信心である。
  •  第3節 信心と生活,病気,330
  •   1週間でおかげをいただいたとか、2週間でおかげをいただいたとか言うが、それは1時、神がその病気をつかまえていてくださるだけのことであって、治ったと思うと当てが違う。大体、重い病気は3年とか5年とか、また十年もたたなければ治るものではなく、もとの体にはなれない。その代わり、もとの体になれば、もう患うことはない。神が病気を直してくださる時は、病気の根から取り払ってくださるのである。腹の中に病気という1本の木が生えたとすると、それを枯らそうとして医者は薬を使うが、枝葉はすぐに枯れても根は残る。根が残るから、また生える。神が治してくださるのは、暇がかかる代わりに、病気の根から治してくださる。
  •  第3節 信心と生活,病気,331
  •   長患いの人や代々難儀の続く人が、神のおかげを受けるのは、井戸替えをするようなもので、八、九分替えて、退屈してやめれば掃除はできない。水はやはり濁っている。信心も途中でやめれば病気災難の根は切れない。井戸水は清水になるまで、病気災難は悪い根の切れるまで、1心に神へ願い、健康で繁盛するように元気な心で信心をせよ。
  •  第3節 信心と生活,病気,332
  •   「長らくの病気ですが、治るでしょうか」と伺ったところ、金光様は、「病気が治るのがよいか、治らないのがよいか。治る方がよいのであろう。治してもらいに参って来たのに、治るであろうかと思ってはならない。今日からしだいに全快におもむくと思え。しだいしだいによくしてもらい、体が丈夫になってきさえすれば、年はとっても病気は治る。しだいによくなると思って信心せよ」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,病気,333
  •   祈れ薬れ、にすればおかげも早いが、薬れ祈れ、にするからおかげにならない。
  •  第3節 信心と生活,病気,334
  •   痛い所があったら、お神酒をつける心になればおかげがある。
  •  第3節 信心と生活,病気,335
  •   お参りして、ありがたい話と思って聞いている時には心が円い。わが家でいろいろのことが思われる時には腹が立ち、心に角が立つ。腹を立てると、顔やくちびるまで色が変わり、また、体の弱い人は頭痛がしたり、癪の病気がある人は腹がさしこむようになったりして困る。それは、腹が立つと、その勢いで体が固くなり、血の巡りがとまるからである。それで体に障りが出る。腹が立つのが少し治まると、とまった血が働き出す。腹が立つ時には、心の鏡を磨いてもらうように、神を頼む心に改めるがよい。信心して病気にならないようにするのが、わが心でわが身を救い助けるということである。
  •  第3節 信心と生活,習俗,336
  •   お札をくださいと願ったところ、「お札はない。お札は人間の目当てにするもので、お札からおかげが出るのではない。神は目には見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、神の中を分けて通っているようなものである。願うのは壁を目当てに頼んでもよい」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,習俗,337
  •   信心して神に取りすがっていたら、縁起を気にすることはない。4は死に通じると言うが、それは悪い方へ取るからである。4なら幸せのしに取れ、よいのよに取れ。みな、よい方へ取って信心すれば、いっさいおかげにしてくださる。
  •  第3節 信心と生活,習俗,338
  •   人が死ぬと、4十九日の間は神棚へ張り紙をして閉門をし、神には手も合わさない者がある。それでも、天地金乃神のお土地は踏まないではいられまい。いろいろと神への無礼をしている。
  •  第3節 信心と生活,習俗,339
  •   ある人が、門まで来ては帰り、何度も来たり帰ったりしているのを、集まっていた信者が見て、「金光様、あの人はどうしたのでしょうか、参りそうで参りませんが」と伺ったら、「あの人は、親が死んで忌みの内であるからと思い、遠慮して参れないのである。この道には忌み汚れはないから参ってもよいと言ってあげなさい」と仰せられた。
  •  第3節 信心と生活,習俗,340
  •   だれでも、生まれる日と死ぬ日とは自由にならないのに、生きている間だけ、日柄とか何とか言う。どのような所、日、方角も、人間に都合のよいのが、よい所、よい日、よい方角である。日柄方角などで、神が人間を苦しめることはない。
  •  第3節 信心と生活,習俗,341
  •   家を建てる時、日柄方角を言う必要はない。暦では吉日であっても、雨が降れば、棟木などの大木は上げにくく、過ちがなければよいが、と心配することになる。神にすがって、いつでも吉日にしてもらう方が安心であろう。
  •  第3節 信心と生活,習俗,342
  •   疑うならば、鬼門の方角へ家を建ててみよ。神が叱らないと言ったら、叱りはしない。臆病を去れ。おかげをやる。
  •  第3節 信心と生活,習俗,343
  •   縁談には、相性を調べ見合わせるより、真の心を見合わせよ。
  •  第3節 信心と生活,習俗,344
  •   建築や縁組みなどをするのは勝手であると思い、お願いしないでする人は、お叱りを受ける。天地金乃神にお願いしなければならない。
  •  第3節 信心と生活,習俗,345
  •   この道では、やくとは世間でいう厄ではなく、役目の役という字を書く。やく年とは、役に立つ年、ということである。大やくの年とは、1段と大きな役に立つ年と心得て、喜び勇んで元気な心で信心をせよ。草木でも節から芽が出て、枝葉を茂らせているであろう。しかし、節は堅くて折れやすい。人間のやく年も同じことである。信心辛抱していけば、節年を境に年まさり代まさりの繁盛のおかげを受けることができる。

  •  第4節 信心と社会,,346
  •   世が開けるというけれども、開けるのではない。こわれるのである。そこで、金光大神が世界を助けに出たのである。
  •  第4節 信心と社会,,347
  •   今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、わが身の徳を失っている。
  •  第4節 信心と社会,,348
  •   今の人は何でも時勢時勢というけれど、たとえ時勢に合ったとしても、神徳をいただかなければおかげにならない。
  •  第4節 信心と社会,,349
  •   神があってお上ができたのに、お上ができたら、神がお上の支配を受けることになっている。
  •  第4節 信心と社会,,350
  •   国のため、人のため、わが身のためも思い、すべてを粗末にしないように、真の信心をせよ。
  •  第4節 信心と社会,,351
  •   世のため、人のため、わが身のためを思って、家業をありがたく勤めることができれば、それがおかげである。それが神の心にかなうのである。



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